蕎麦の伝来は縄文時代
日本におけるそばの歴史は古く、縄文時代には既に伝来していたといわれます。生育が早く痩せた土地でも育つため、農村地帯などで主に備蓄食として栽培されてきました。食べ方は現在のような麺状のものではなく、お湯を加えて餅状にした「そばがき」や、「そば粥」、「おやき」といった食べ方が主流だったようです。
現在のような細く切った麺状の「そば切り」と呼ばれる食べ方は、最古の記録では安土桃山時代、長野県にある定勝寺の古文書『番匠作領(料)日記』(1574)に登場しています。
出雲地方におけるそば切りの歴史
麺状の「そば切り」がどのように出雲地方に入ってきたかについては諸説ありますが、一説では徳川家康の次男、結城秀康の子である松平直政が、1638年に松江藩に転封したことによるといわれています。直政公はそばを特産とする越前(福井県)から、信濃(長野県)を経て松江藩に領地を移されたという経歴もあり、直政公と共に松江にそば切りの文化が伝わったと考えられています。
出雲地域における「そば切り」の最古の記録は、直政公が松江藩を継承して28年後の1666年(寛文6年)、江戸前期の出雲大社の神職であった佐草自清の著書、『江戸参府之節日記』で見ることができます。それによると1666年3月27日、松江城下にある松江藩寺社奉行の岡田半右衛門役宅で、出雲大社の造営工事について協議が行われ、そこで「そば切り」の振る舞いがあったと記されています。
その頃、江戸では既にそばは庶民の食事として確立されていた背景もあり、参勤から戻った武士や商人が松江でそばを広めていったことも想像できます。
松平不昧公とそば
松江の産業と文化を振興した名藩主として名高い、松江藩の七代目藩主・松平不昧公。茶人としても知られる不昧公もまた、そばが大好物だったと伝えられています。そばを茶懐石に取り入れてそば懐石を考案したのは不昧公だったと言われ、そばの地位を高めることに貢献しました。不昧公は、「茶を立て、道具求めて、蕎麦を食い、庭を作りて、月花見ん、このほか大望なし、大笑、大笑」と書き残したほどそば好きだったそうです。
松江歴史館所蔵 「松平不昧肖像画」
松江でのそば屋の出現
城下屈指の豪商であった新屋(あたらしや)の使用人・太助が綴った日記帳『大保恵日記』には、現在の松江市天神町のそば屋でそばを食べた記録が残されています。このことから少なくとも江戸後期には松江や出雲大社周辺を中心にそば屋が出現し、庶民の間で好きな時にそばを食せるようになっていたようです。
引っ越しをする際、ご挨拶の手土産として新しい近隣にそばを配る風習「引越し蕎麦」が始まったのも江戸の頃といわれ、生そばの代わりに「そば切手」という券を配っていました。受け取った人はそば屋でいつでもそばと交換できる、食事券・商品券のようなもので、人々の間でそば食が浸透し、需要があったことがうかがえます。